ハイジ(1) 愛への帰郷

23食べて祝おう。
24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
新約聖書 ルカによる福音書 15章23節後半-24節
こんにちは。滋賀摂理教会の金原堅二と申します。今日こうして皆様にお話できることを感謝しています。
皆様は、「ハイジ」という作品をご存知でしょうか。以前、アニメで放送されていた「アルプスの少女ハイジ」の「ハイジ」です。アニメで放送されていたものがよく知られていますから、ご存じの方も多いと思います。もしかしたら、本国のスイスに引けをとらないくらい、日本ではよく知られているかもしれませんね。山育ちの元気いっぱいのハイジが、自然の輝きに満ち溢れた高原で生き生きと過ごしている姿や、フランクフルトで友達になったクララとの友情を深めていくシーン、さらには「クララが立った!」というシーンを思い浮かべる方もいらっしゃると思います。
実は、この作品を丁寧に紐解いて原作を読んでみると、著者であるヨハンナ・シュピリのキリスト教信仰が、登場人物の生き方によく現れているのがわかります。アニメではごっそり削ぎ落とされてしまったのですが、この作品には、実は聖書信仰の世界が反映されているのです。その意味で、神様の愛に包まれて生きる人の、たとえようもなくあたたかな賛美と感謝が溢れた作品だと言ってもよいと思います。
特にハイジのおじいさんの姿は、聖書の「放蕩息子のたとえ」に出てくる弟息子の姿と重なっています。放蕩息子とは、父親から財産をもらって家を飛び出し、好き放題に生活したのだけれども、挫折して、悔い改めて帰ってきた。そんな息子のお話しです。
ハイジのおじいさんは、神様に背を向けて孤独に暮らしていました。それで「神様から逃げ出し、遠く離れたわたしはもう見放されている。神様はわたしを受け入れてなどくれない」という思いをもっていました。そうして、村の人たちとも関わりを持たず、一人で山にこもって生活をしていたのです。そのおじいさんが、神様の愛のもとに帰っていく、すなわち帰郷するシーンが原作では非常に印象的です。
物語の後半、フランクフルトから帰ってきたハイジは、おじいさんに「放蕩息子」のたとえを読み聞かせます。息子が帰ってくるシーンから、「ハイジ」のテキストでお読みします。
「おとうさんは息子のすがたを見てかわいそうで胸がいっぱいになり、走りよって息子の首をだきしめ、キスをしました。息子はおとうさんにいいました。『おとうさん、ぼくはわるいことをしました。天の神さまにも、おとうさんにも。もうあなたの息子とはいえません。』ところが、おとうさんは下男にこういったのです。『いちばんいい服をもってきて着せてやれ。手には指輪を、足には靴を、そしてよく太らせた子牛をつぶして肉にしろ。大ごちそうでお祝いだ。このわたしの息子は、死んだのにまた生き返ったのだ。いなくなっていたのに、また見つかったのだ。』みんなは大よろこびでお祝いをはじめました。―――――このお話、いいでしょ、おじいちゃん?」
(中略)
それから数時間後、ハイジはとうにねむっていました。せまいはしご段をおじいさんがそっとのぼっていきました。手にもったランプを、ハイジのベッドのそばに、ハイジの顔が見えるようにおきました。ハイジは手をくみあわせてねむっていました。忘れずにお祈りをしたのです。ほんのりと赤い小さな顔は、清らかな、安心しきったやすらぎにみちあふれていました。その顔がおじいさんに語りかけたのでしょう、おじいさんはそこに立ったまま、長いあいだ身じろぎもせずにハイジを見おろしていました。
とつぜん、おじいさんは手をくみあわせました。頭をたれて、小声でいいました。
『おとうさん、ぼくはわるいことをしました。天の神さまにも、おとうさんにも。ぼくはもうあなたの息子とはいえません!』
大つぶの涙がいくつか、老人のほおを流れ落ちました。」
(ヨハンナ・シュピリ、上田訳『ハイジ下』岩波少年文庫、25〜27頁。)
このように、若い頃に神様に背を向けて、孤独に生きていた一人の人間が、再び神様の愛の中で生きるようになったのです。放蕩息子の物語に自分を重ねたおじいさんは、翌朝、悔い改めて村の教会へ礼拝に向かいます。そこでハイジたち皆と一緒に礼拝し、牧師からのメッセージを聞き、あたたかな賛美と感謝に包まれるのです。こうして、おじいさんは、そこで温かく神様に迎え入れられ、また村のメンバーにも迎え入れられました。おじいさんと神様との間に和解が起こり、また村の人たちも心動かされて、おじいさんと和解していくのです。
この「ハイジ」という物語そのものは、ひとつの創作でありますが、ここには現実の私たちの教会で起こる神様の愛が豊かに表現されています。神様の愛は現実のものです。神様に背を向けて歩んでいた私たちが、ただ「神様のもとに帰ろう」と決心するだけで、神様は大喜びで駆け寄り、抱き寄せてくださる。その、神様の愛は、本物です。
教会で礼拝するとき、私たちは神様を知るのです。神様を知るとは、どういうことか。それは、神様の偉大な愛の中に置かれている自分、神様に愛されている自分を発見するということです。神様の愛の中に自分がいるのだと。今ここにいる自分が愛されているのだと知ることです。教会でささげられる礼拝の場で、神様は今もあなたを待っておられます。