聖書の言葉
イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
新約聖書 ルカによる福音書 8章30節
川瀬弓弦によるメッセージ
What is your name?「あなたのお名前は?」そう英語で聞かれたら、My name is Yuzuru Kawase 「私の名前は川瀬弓弦です」と答えるように学校では教えられたでしょう。でも、実はそういう教科書通りの言い方はカッコ悪いのだそうです。そうではなくて、I'm Yuzuru Kawase 「私は川瀬弓弦という者です」と言うのが正解だそうです。I am という表現は、「私はこういう者、こういう存在です」という意味が込められています。誰かに名刺を渡す時には、名前と一緒に仕事内容や役職を伝えますね。初対面の人の名前だけ知ってもその人のことを知ったことにはなりません。出身地や家族のことも聞くことがあるでしょう。相手が知りたいのは「あなたは一体どういう人なのか」ということだからです。
宮崎駿監督のジブリアニメに「千と千尋の神隠し」という映画があります。主人公の千尋(ちひろ)は引越の途中で日本の神々が集まる不思議な世界に入り込んでしまいます。豚に変えられてしまった両親を助け、自分の世界に戻るために、臆病だった千尋は勇気と知恵をしぼって八百万の神々が集う銭湯で働くことになります。その銭湯を仕切っていた「湯婆婆」という魔女は、千尋という名前の一部を取って少女を「千」と呼びます。魔女は名前の半分を奪うことで、千尋を永遠に支配しようとしたのです。千尋はそこで働く間に自分の本当の名前を忘れそうになってしまいます。しかし名前を忘れれば、もう本当の自分にも、自分の世界にも戻ることができないと忠告されていました。
イエス様は出会った男に「お前の名前は何というのか?」と尋ねました。男は「レギオン」と答えるのですが、これは男の名前ではありません。男に取りついていた大勢の悪霊どもが、男に代わって答えたのです。悪霊が男の名前を奪って、男の主人となっていました。そしてその生活はひどいものでした。人里離れた墓場で一日中裸で暮らし、大暴れするので人々は鎖で男をつなぎとめようとするのですが、それさえも引きちぎってしまうのです。問題は周りの人が男を抑えられないことではありません。名前を見失ってしまった男自身が自分を見失って、自分の人生をどうすることもできないでいた、ということです。
私の妻は「日本人の名前はほんとうに沢山あってユニークね」と言います。ここまで一生懸命子供の名前を考える国は少ないと思います。でも自分の名前に誇りを持っている人とはほとんど出会ったことがありません。むしろ「私は名前負けしている」と自分の立派な名前に劣等感を抱ている人は大勢います。聖書の中にも、とても立派な名前とは真逆の人生を歩んでしまう人々が沢山登場します。それはある意味、自分自身を見失っていると言えるでしょう。
名前を聞かれればすぐに”My name is ~”と答えることができても、果たして深い意味においてI am ~”と、私が一体何者であって、どんな目的で生きているのかを答えることができるでしょうか。多くの場合そうではないと思います。自分が一体誰なのかを忘れてしまいそうになる千尋のように、また本来の自分ではなに何かに支配されているようなこの男のように私たちは生きているのではないでしょうか。男の住処は墓場でした。墓場は死を象徴する場所であって、本来生きている人の住む場所ではありません。「結婚は人生の墓場」などと言いますが、自分が何のために生きているのか分からない、生きている意味が分からない、そういう人にとってこそ人生は「墓場」になるなのだと思います。
イエス様はそういう私たちの「命」を取り戻すために訪れてくださいます。生きている意味や、生きる目的をお与えになります。大勢の悪霊によって支配されていた絶望的なこの男も、イエス様との出会いの中で癒されました。人々は男が「正気になっている」姿を見ました。イエス様と出会って自分を取り戻した人がどうなるのか、それをこの人はよく表しています。男は癒された後、イエス様に従いたいと願うようになりました。結局は自分の町に帰らされるのですが、そこで新しい使命をいただいて、新しい人生の目的をいただいて、新しい人として生きるようになったのです。
イエス様を信じると「クリスチャン」と呼ばれるようになります。これはもともと「キリストに従う者」という意味でつけられたキリスト者のあだ名です。それは私たちの新しい名前となります。この新しい名前は、私たちの新しい生き方を表しています。イエス様が新しい主人となって、キリストに従うようになるということです。イエス様に従う人生においては、もはや自分の名前を忘れることも、自分自身を見失ってしまうこともありません。私だけではなく、イエス様ご自身もこの名前を一緒に負って歩んでくださるからです。「あなたの名前は何ですか?」