新しい人生のために
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(口語訳)
新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章17節
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。甲子園教会の吉田隆と申します。今日の聖書の言葉をお聞きください。今日は口語訳聖書でお読みします。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。▼さて、今日、4月5日は、イエス・キリストの復活を記念するイースターです。クリスマスと違って、イースターの日曜日は毎年変わるのですが、今年は期せずして、新年度最初の日曜日になりました。学校や仕事に行っている方々にとっては、新しい思いをもってスタートを切る、その最初の日曜日となりましたね。▼私事で恐縮ですが、私が生まれて初めて教会の門をくぐったのは、埼玉の実家から遠く離れた仙台の大学に入学した最初の春のことでした。当時は、電信柱に教会案内のポスターなどが貼られていたのですが、「新しい人生」というタイトルの集会案内に、私は心が引かれたのです。自分も、それまでとは違う、全く新しい人生を生きたい。新しい人間になりたい。心からそう願っていたからです。そして、キリスト教会には、きっと何か私の人生を新しくしてくれるものがあるのではないか。そんな期待を胸に、教会という場所に初めて入ったのでした。▼私が初めて訪ねた教会は古い普通の民家で、十字架もありませんでした。名前も改革派と言って、何だか物騒な感じがして、本当に大丈夫かなと思ったものでした。古い建物の中は、一階の六畳二間をぶち抜いた所が礼拝室。およそ「新しい」人生を始めるのに、ふさわしいとは言えない場所でした。おまけに、牧師さんの話はチンプンカンプン。全くわかりませんでした。それでも、礼拝の時のリードオルガンの音色の美しさ。そして、親切な教会の方々。自分がそれまで経験したことのない“新しい世界”がそこにあるように思ったのです。そうして、何はともあれ、その教会に通い続け、次第に聖書のお話も少しずつわかるようになり、牧師先生や教会の方々とも少しずつ親しくなって、一年後の4月のイースターに、私は洗礼を受けてクリスチャンになりました。まさに「新しい人生」を、歩み始めることになったのでした。▼実は、その一年間、教会に通い始めたことも、クリスチャンになろうと決心したことも、実家の親にはずっと内緒にしていたのです。自分の心の中のことを正直に話すのが恥ずかしかったからだと思います。反対されるのを恐れていたのかもしれません。けれども、洗礼を受けてキリスト者になるというのは、単に心の中の問題じゃあない。本当に自分は、新しい人間として、新しい人生を歩み出すんだと思った時に、これはもはや親に隠しておいてはいけないと思ったんですね。ちゃんと伝えないといけないと。それで、洗礼を受ける一週間前に、電話で母親に初めて話しました。実は、ずっと教会に通っていて、今度洗礼を受けてクリスチャンになるんだと。▼もちろん、そんなことを言われても、親は何のことやらさっぱりわかりません。私の家は、キリスト教でも何でもなかったので。ただ、電話の向こうで母は泣いていました。自分の子供が、何か自分の知らない遠い世界に行ってしまうような気がして悲しかったと、後になって教えてくれました。この時のことを思い出すと、今でも辛いです。もっと早くからちゃんと話してあげればよかったと。それは、私の後悔です。▼洗礼を受けた私は、今度は、なるべく多くの人に自分がキリスト者となったことを知らせるようにしました。家族はもとより、親戚や私の昔からの友人たち、また新しく出会った人にも、名刺代わりに「私はクリスチャンになりました」という文章を書いて、誰彼かまわず渡しました。相手の方がどのように思ったかはわかりません。けれども、自分は以前の自分とは違うのだということを、ハッキリと知らせたかったのです。▼今日の聖書の言葉に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」とあります。これは、以前の聖書の翻訳で、私が洗礼を受けた頃に読んで暗記していた言葉です。すばらしい言葉ですね。今でも、何だか心に力がみなぎってくるような言葉です。「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」と聖書は言います。でも、いったい何が新しくなったのでしょうか。キリスト者の人生の何が新しいのでしょうか。▼一言で言えば、それは、神と共に生きるということです。イエス・キリストという目には見えない御方と共に生きるという人生です。それまでは、神のいない人生。自分だけの自己中心的な人生でした。けれども、そうではない。この世界も、そして私をも造って下さった方がおられる。そして、この罪深い私を愛して、命さえも捧げてくださった方がおられる。この方と共に生きる人生です。十字架で死んでくださっただけでなく、今やよみがえって、復活して、永遠に生きておられる方と、私もまた永遠に生きて行く。それが、キリスト者の人生です。▼この春、皆さんは、どんな思いでご自分の人生を歩んでおられるでしょうか。皆さんお一人お一人の人生もまた、「すべてが新しくなった」という、そんな新しい人生へと導かれますように、心から願わずにおれません。