わたしのもとにいらっしゃい
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
新約聖書 マタイによる福音書 11章28節-30節
皆さん、おはようございます。日曜日の朝、いかがお過ごしでしょうか。
【本論① 休んでも疲れている日本人】
先日インターネットで、「日本の疲労状況」についての記事を見つけました。全国10万人から調査をしたところ、程度はありますが「疲れている人」がほとんどで、30代の方の疲労は深刻なのだそうです。睡眠時間の少なさや、長時間の労働。またはスマホやパソコンの普及など、便利な道具が広がる一方で、私たちの生活習慣が変わってしまい、多くの方々が疲れを抱えたまま過ごしているようです。ある専門家によれば、睡眠時間を確保できれば「休める」というわけではないというのです。実はわたしも、つい手元のスマホで時間を使ってしまいます。「疲れを取る方法」や「良い睡眠をとるための生活習慣」など、良い情報を得ようとスマホで時間を費やして、結局疲れてしまう。そんな本末転倒なことをしていた自分に気づきました。こうした話を聴きますと、「それならどうしたら良いのだろう」と思いますよね。私たちの健やかさはどこから来るのでしょう。イエス様の御言葉に触れてみますと、そのヒントがあります。
【本論② イエス様の招き】
先ほどお読みした聖書の御言葉は、イエス様の招きの言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」このイエス様の言葉は、多くの人に慰めと力を与えてきました。聖書によりますと、たくさんのユダヤの人たちがイエス様の言葉を求めて集まってきました。当時ユダヤの人たちを導いていた指導者たちは、生活の中で、「こうしなければならない」とか、「あれをしてはならない」と、とても厳しく指導していたようです。自分を縛る当時の教えが、彼らにとって「重荷」となって、彼らの心は「疲れて」しまったようです。いろんな生き方でがんじがらめになってしまう、今の私たちと似ているかもしれません。しかしイエス様は、そんな疲れた者、重荷を負う人たちを、「わたしのもとに来なさい」と招かれました。疲れと重荷のある生き方とは別の本当の生き方が、ご自分のもとにはある、そしてそこにわたしたちの安らぎがある、とイエス様は招かれるのです。
【本論③ 本当に疲れを癒すのは】
イエス様は「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われています。「休ませてあげよう」と招いておられますが、何もしなくて良くなるわけではないようですね。イエス様は「わたしの心は優しくおだやかで、へりくだっているから、わたしに学びなさい」とおっしゃいます。上から命じるように教えていた当時の指導者たちとは異なり、イエス様は優しく、わたしたちと同じ目線に立ってくださる。そう語っておられるのです。
「くびき」あまり聞いたことがありませんね。家畜が働くために取り付けられる農具で、方向を共にするためのものです。一見、縛るための道具に見えますが、イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」とおっしゃっています。なぜ軽いのでしょうか。実はここでイエス様がおっしゃる「くびき」というのは、一人で背負わせるためのものではありません。昔ある教会を訪ねた時、廊下の壁にこのくびきの飾りが飾ってあるのを見つけました。それは二頭引きのものでした。あぁ、イエス様がおっしゃっていのたはこういうものだったのか、と思い巡らしました。つまり、イエス様のおっしゃるこの「くびき」とは、わたしたちの重荷を一緒に背負ってくださるためのものなのです。本当に疲れを癒すのは、自分で背負って解決する方法ではなく、私たちの重荷を一緒に担ってくれる方がいる。このメッセージこそ、私たちの心の疲れを本当に癒すものなのです。
【結び:私たちへの招き】
時代を超えて、イエス様は、わたしたちにも語りかけておられます。「疲れの悪循環」の中にいる私たちを、イエス様は招いておられます。このラジオを聞いているあなたも、何かに疲れを覚えているかもしれません。そんな時、今朝の言葉を思い出してください。今日も教会では、神様への礼拝がささげられています。そこには本当の意味で私たちの心を満たし、癒す、神様の安らぎがあります。どうぞ一度、お近くの教会へ足を運んでみてください。イエス様はあなたを招いておられます。今日も1日、神様の祝福と平安が豊かにありますように。いってらっしゃい。