十字架と垂れ幕

しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
新約聖書 マルコによる福音書 15章37節-38節
キリスト教会では、今日の日曜日からの一週間とくに、受難週と呼ばれる、イエス・キリストが十字架にかけられた苦しみを深く覚える時をもちます。そして、来週の日曜日は、イースターと呼ばれる、イエス・キリストが、十字架の死から三日目に復活されたことを記念する礼拝の日です。
イエス・キリストの十字架について、新約聖書のマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の四つの福音書がその出来事を伝えています。
マルコによる福音書では、十字架のつけられたイエスの死がこのように証言されています。
「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコによる福音書15章33~39節)
このようにイエスの死という、一人の人の死は、非常に印象深い言葉によって証言されています。イエス自身、二人の犯罪人といっしょに十字架刑に処せられたのであり、その意味では、犯罪人の一人に数えられたのです。しかしながら、イエスの死だけが、特別な意味をもっていたことを、わたしたちは、聖書のいくつかの証言から認めることができます。
その証言の一つが、神殿の垂れ幕です。イエスの死とときを同じくして、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのでした。
神殿の垂れ幕は、神殿の一番奥の至聖所とその手前の聖所を隔てるものでした。この一番奥の至聖所は、いわば、神に最も近い場所として定められ、だれでも入れる場所ではなく、大祭司だけが入ることができました。
しかし、イエスの死において証しされた神殿の垂れ幕は、事実、上から下まで真っ二つに裂けたのです。それは、垂れ幕という仕切りが不要となったことを物語っています。
事実、イエス・キリストの死において示された、神の真実を教えるヘブライ人への手紙では、このように至聖所の垂れ幕という言葉を用いて、わたしたちが持つことできる希望についてこのように教えられています。
「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。」(ヘブライ人への手紙6章19節)
人類の歴史上、イエス・キリストは、聖書に書いてあるとおり、エルサレムのゴルゴタの丘で、二人の犯罪人といっしょに、十字架にかけられたお方です。それは、福音書が証言するとおりです。そして、そこで、証言された、上から下まで真っ二つにさけた神殿の垂れ幕は、今や、わたしたちが、神に近づくことができるために、さきだって、イエス・キリストご自身が、そこへ入られたと、ヘブライ人への手紙において教えられています。それは、イエス・キリストの十字架の死が、神の前には、ただ一つの完全な犠牲、いけにえであったことを証言しています。
じつは、イエス・キリストは、人の目に人間でありながら、永遠の神の御子が、罪をほかにしては、本当の人間になられたのでした。それは、一度死ぬことを定められた人間のために、イエス・キリストご自身が、身代わりになって死ぬためです。そして、その死に打ち勝ってよみがえる力を、まことの神としての力を、イエスはお持ちでもあったのです。
先日、男山教会の子どもたちと親たちの会、こひつじ会で、イエスさまは死ぬためにお生まれになったことを学びました。ユダヤのベツレヘムで生まれたイエスさまが、じつは、永遠の神の御子でありながら、まことの人間になられたイエスさまのこと、また、イエスさまが、わたしたちの身代わりとなってくださったことを聞いて、小学生の子どもの一人が、「すごく深い話し」と驚きながらも、よく聞いて、心に留めていました。考えてみれば、死ぬために生まれてくる人はひとりもいないはずです。人間は生きるために生まれてくるのであって、死ぬことを目的とするはずはないのです。けれども、ここに、イエスお一人だけが、わたしたちのために身代わりに死んでくださったという、神の真実が明らかにされています。
イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活され、弟子たちの見ている前で、天に上げられました。そして、今、天の王座についておられ、大祭司として、すべての人びとのために、祈っておられます。それは、一度、成し遂げられた、十字架の犠牲、いけにえの命を、ご自身のもとに来る人びとに与えてくださるためです。
あなたを死の恐れから解放するために、この世に来られた、イエス・キリストを信じて、新しく、生きる道を求めてくださればさいわいです。