主は羊飼い

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聖書の言葉

1【賛歌。ダビデの詩。】

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

2主はわたしを青草の原に休ませ

憩いの水のほとりに伴い

3魂を生き返らせてくださる。

旧約聖書 詩編 23編1節-3節

金原堅二によるメッセージ

この御言葉は「主は羊飼い」と言っています。つまり、神様のことを「羊飼い」、そして自分のことを「羊」と言っているわけです。

みなさんは、羊がどんな動物かご存知でしょうか。古来から、羊は弱い動物とされていました。狼など、他の獣に襲われたら、自分で身を守ることができずに食べられてしまいます。自分よりも強い動物に出会ってしまったら、食べられてしまう。死んでしまう。そういう弱い動物です。また、羊は目がよくありません。自分で餌を見つけるのが大変難しいです。さらに、迷子になってしまうと、自分一人の力では群れに帰ってくることもできないのです。

ですから、聖書の舞台であるイスラエルでは、羊が生きていくためには、自分たちのお世話をして、食べ物を与えてくれて、獣たちから守ってくれる、そんな「羊飼い」が絶対に必要でした。羊飼いというのは、羊を飼う人のことですが、その羊飼いが、羊たちを食べる場所に導いてくれて、獣たちから守ってくれて、迷子にならないように支えてくれたのです。イスラエルは基本的に荒れ野ですから、食べるための草や飲み水は、探さないと見つかりません。狼など野生の獣がいますから、そんな獣たちから守ってもらう必要があります。迷子になったら、探して見つけてもらわないと死んでしまいます。羊が生きていくためには、自分たちのことを守り、養ってくれる羊飼いがどうしても必要なのです。

今日の詩編では、神様こそが、私たち人間にとっての羊飼いなのだと語っています。神様は、私たちといつも一緒にいてくださって、命へと導いてくださるからです。「羊飼いである神様が一緒にいてくださる。だから、本当に安心して、元気いっぱいに、健やかに生きることができる。神様が一緒にいてくださるってことが、もう嬉しくってたまらない!」そんな思いを歌に乗せて、今日の詩編の御言葉は「主は羊飼い」と語っているのです。そして、「私には何も欠けることがない」というのは、羊飼いである神様によって「わたしはすべてにおいて満たされている」という意味です。ただ羊飼いである神様が私を守り、導いておられるゆえに、私は全てにおいて満たされている、と言うのです。

では、私たちが「神様の恵みに満たされている」とは、どういう意味においてそう言えるのかと言いますと、それはイエス・キリストの救いの恵みによって満たされるということです。私たちは、そもそも神様のみもとから迷い出た羊でした。聖書は、私たち人間が、「神様と共に生きる存在として創造された」と語っています。それにもかかわらず、生まれながらに罪の性質をもち、自分では神様のみもとに帰ってくることができなくなった、そういう、盲目で、罪のうちに滅ぶしかない弱い存在だったのです。それが、聖書の語る人間の姿です。けれども、その私たちを自ら探してくださり、見出してくださったのがイエス・キリストなのです。

イエス様は、「わたしは良い羊飼いである」と仰り、ご自分を羊飼いとして証してくださいました。良い羊飼いであるイエス様は、神様のもとから迷い出た羊たちを、すなわち私たちを、救い出すために十字架にかかってくださいました。私たちが本来受けるはずだった罪の報いを、神様からの裁きを、身代わりになってその身に受けてくださいました。そうすることで、私たちがもういちど、神様と共に生きることができるようにしてくださったのです。

詩編の御言葉は、2節と3節で次のように語っています。

2主はわたしを青草の原に休ませ

憩いの水のほとりに伴い

3魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく

わたしを正しい道に導かれる。

イスラエルの舞台において、羊たちが青草の原で休み、憩いの水のほとりにたどり着くことができるのは、羊飼いが先頭に立って導くことで成り立ちます。私たちは、イエス様の救いの恵みによらなければ、荒れ野をさまよう羊と同じです。自分たちで草を得ることができず、水を飲むことができず、渇いて力尽きてしまいます。それは、生きているのに死んだような状態、どこに向かってよいかもわからず、彷徨っている状態です。この世の罪と悲惨に疲れ、安らぎを失っている状態なのです。イエス様は、そんな私たちに「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言ってくださり、青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださいます。どこに進めばよいのかもわからなかった私たちの前に立って、「こっちに来なさい」と優しく手を引いてくださるのです。いのちのある「正しい道」へと導いてくださるのです。だからこそ、私たちにはもう何も欠けることがない。私たちが心から安心できる根拠は、自分の中にあるのではなくて、羊飼いであるイエス様の中に平安の根拠があるのです。

この詩編は、神様に対する感謝と信頼で満たされています。非常に美しく、読むだけで励まされるような詩編です。その感謝と信頼は、私たちにとってはイエス・キリストにおいて大きく花開いています。イエス様を通して、私たちはここで詩人が受け止めている全ての恵み、すべての平安、慰めをいただくことができるのです。

イエス様の救いの恵みに触れる場所。それが最も鮮やかに現れる場所が、主の日の礼拝の場です。私たちは、礼拝の場において、イエス様に触れ、この詩人のようにまことの喜びと平安の中で、神様に信頼して歩むことができます。何か困難にあたったときに「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と確信をもって口にすることができます。みなさまも、ぜひ、礼拝の場で、イエス様の温かい恵みに触れていただきたいと願っています。

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