聖書の言葉
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか
新約聖書 マタイによる福音書 6章26節
西堀元によるメッセージ
数年前、家族で山に登りました。休日の1日、朝ごはんを済まし車でドライブをしました。山に登ったといっても本当に小さな山です。ですから一時間くらいで頂上です。山に名前があったはずですが覚えていません。あまり人気のない山でしたから、登る時も降る時もすれ違う人はほとんどいませんでした。小さな山に登ったのは日頃運動不足もあって一時間でも山を登るのは大変だと思ったからです。やっと頂上に到着して持ってきたおにぎりを食べました。お昼ご飯です。その日は快晴だったので小さな山でも頂上からの見晴らしがとても良かったことを覚えています。斜面から白い岩肌が印象的な山でした。
山に登っていく途中、かなり急な斜面を上り切ったところに、花が咲いていました。小さな黄色の花でした。何輪か咲いていました。花の名前を知っていたら良いのですが、それもわかりません。でもとても可愛らしい花でした。そして思いました。先ほども言ったようにほとんど人が登らない山です。この花は自分が見なかったら誰が見たのだろうと思ったのです。誰に見られるかなど関係なく、小さな黄色い花が咲いていたのです。その時、聖書の言葉を思い出しました。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどに着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」。黄色の小さな花を見て思いました。神様は自分が思いもよらないところを守り支えてくださっているのだと。
先ほどの聖書の言葉はイエス・キリストが毎日の生活を心配する人たちに語った言葉の一部です。イエス様は言われました。「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」当時の人たちは、心配をしました。「何を食べようか。」「何を飲もうか。」「どんな服を着ようか。」これは昔の人たちの生活の心配の言葉ですが、私たちも他人事ではなくなってきているかもしれません。最近物価が高くなってきて、日常のものを買うのも慎重になってきた人もいらっしゃるのではないでしょうか。
そんな生活の心配をする人たちにイエス様は鳥の話をしました。イエス様のこの話は野外で説教をしている場面なので、イエス様たちの目の前に鳥が飛んでいたのかもしれません。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。」確かに鳥は倉庫を作って来年のための食糧を確保したりしません。それでも鳥は生きている。それは天の父なる神様が守っていて、鳥にも食べるものをくださるからなのです。誰も見ていない小さく、でも美しい花を咲かせるような神様の配慮が、私たちが全く関心をよせないような鳥たちにもおよんでいるのです。
そしてイエス様は「あなた方は鳥よりも価値があるものではないか」と言われます。配慮をされていないように思う鳥が守られているなら、私たちはもっと守られているに違いないと言われるのです。私たちは自分のことは自分でできるようにと、教えられてきました。そして他の人に迷惑をかけないように生きられたら大人になったしるしのように思って生きている人も多いかもしれません。自分の世話は自分で何とかできないと、大変なことに違いないと思うのです。他の人が自分の世話まではしてくれないと思うからです。
でもイエス様がおっしゃった「あなた方は鳥よりも価値があるものではないか」という言葉は、私のことを、私以上に心配をしてくれているお方がいるということを教えています。自分で自分のことを心配する以上に、天の父なる神様が私の生活を心配くださっているのです。だから「何を食べようか」「何を飲もう」「何を着るのか」という心配は神様にポンと預けることができるのです。そういった心配は神様のことを知らない人が心配することだと言われます。こうして心配から自由になった人は他のことができるようになります。それが「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」です。神様のことを中心に生きるのです。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とイエス様はおっしゃいます。
またイエス様は別のところで「あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなた方はたくさんのスズメよりもはるかにまさっている」とも言われました。神様は私たちの髪の毛の数まで知っているのです。しかもこれは一回数えたという意味ではなく、常に数えられているという意味です。皆さんの中には腕時計を使って健康のための心拍とか色々なものを調べている人がおられるかもしれません。それ以上の配慮を天の父なる神様は私たちにしてくださっているのです。それは私たちのことを大切に思ってくださるからです。
仕事をしていて、肩が凝ったり色々なところが痛くなることがあります。でも家族や友人が心配をしてくれると痛みも和らぎます。私たちは毎日生活する中で、苦労があったり、色々な心配があるのではないでしょうか。そしてそのような辛さがさらに辛くなるのは、自分の苦労が誰にも理解されていないと思いう時ではないでしょうか。でも私のことを誰が心配してくれなくても天の父なる神様は見ていてくださる。そして配慮くださるのです。これは大きな慰めではないでしょうか。