肩書をなくす時

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章8節-9節
大きな地震を体験したことがあります。8年前の熊本地震です。熊本市内に住んでいたので、相当な揺れでした。余震がひどかったので、避難所の小学校でしばらく過ごすことにしました。地震の翌日、嵐が迫っているという噂もあり、避難所が騒然とした様子だったことを覚えています。小学校の教室に家族で避難していましたが、部屋にはお年寄りが多く避難していたので、場所を整理したり、危険なものをしまったりする仕事を任されました。体験した方はわかると思いますが、地震や災害が起きると、その場にいる人たちで何とかしないといけません。その人が持っている肩書きが、地震の時はなくなるのだと感じました。何ができるかということが大事になります。できる人が、できることをとをする。災害が起きるとある一定の時間、肩書きがなくなる時があると思います。切羽詰まった時、その人の本質があらわになります。
ただ私たちは地震などの災害の中をいつも生きている訳ではありません。日常の生活を私たちは過ごしています。仕事に行ったり、学校に通ったり、家の掃除だったり、デイサービスに出かけたりする。私たちの日常はそれぞれに与えられた役割を生きていくことになります。会社員なら会社に行く。新聞配達をする人は毎朝バイクを走らせる。学生は眠い目を擦って電車に揺られて学校に行く。高齢の方は病院に行く。そしてそれぞれに役割があります。会社員、学生、家の中ではお父さん、お母さんであるという役割もあります。この役割のことを肩書と呼ぶこともできるでしょう。私たちはそれぞれに与えられた肩書を担って歩みます。そうした役割や肩書きが、窮屈だと思う時もあると思います。でもやっぱり自分の肩書きがあるので支えられているという人もいらっしゃるのではないかと思います。
さて聖書の中で立派な肩書を持つ人がいました。パウロです。彼は自分のことを次のように紹介しています。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所がない者でした」。パウロは宗教的なエリートなのです。生まれながらユダヤ人としの教育を受けて育ち、長じても聖書が要求するようなことはきちんと守ってきたという自負がありました。ユダヤ人が聞いたなら誰もがうらやむようなエリート中のエリートなのです。
しかしパウロは自分の肩書を何とも思っていません。先ほどのところは次のように続いているからです。「しかし、私にとって有利であったこれらのことを。キリストのゆえに損失とみなすようになったのです」さらに「それらを塵あくたと見なしています」とまで言います。「塵あくた」という言葉は食事の残飯や排泄物まで表す言葉です。パウロは自分の肩書はゴミのようなものに過ぎないとまで言うのです。どうしてパウロはそこまで言うことができたのでしょうか。
それは自分の肩書きよりも遥かに素晴らしいお方に出会ったからです。パウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています」と言います。パウロはキリストを知ることの素晴らしさと、自分の肩書を比べるなら、比較にならないほどキリストを知ることの方が素晴らしいと言うのです。ここで「キリストを知る」と言うのは、頭でわかると言う意味以上です。キリストを人格的に親しく知っているという意味です。
先の聖書の言葉にあったようにキリスト者にされる前のパウロは教会を迫害する人でした。信仰者を憎んでいました。しかしそのようなパウロに復活のキリストが現れてくださいました。パウロはイエスは十字架について死んだものだとずっと信じていたのです。そんな考えが全て吹き飛ぶ出来事でした。復活のキリストは教会を壊していたパウロを真逆の人にされました。キリストがパウロを教会の伝道ために生きる者にしたのです。
こうした経験をパウロは「キリストのうちにいる者と認められるため」だと言います。直訳すると「キリストのうちにいる者として発見される」です。私たちは立派な肩書というと一生懸命努力して仕事をすること、誰にも負けないほど勉強することで手にするものだと思っています。立派な肩書はそうした血の滲むような努力によって手にするものかもしれません。しかしパウロの最終的に手にした「自分がキリストのうちにある」という言葉はびっくりする表現ではないでしょうか。私たちは宗教の最高到達点というなら、「キリストが私のうちにある」という風に言ってもらった方がしっくりくるからです。でもパウロは反対のことを言っています。パウロの方がキリストのうちにあるのです。
そしてさらにパウロはキリストのうちにあることを「発見される」とあるのです。誰に発見されるのでしょうか。それは神様であり、キリストでしょう。宗教的なエリートであること誇っても良いパウロでした。以前のパウロ、キリストに出会う前のパウロはきっと自分の肩書を誇りに思っていたでしょう。しかしパウロはキリストと出会って全部が変わったのです。昔のパウロは自分から神様に向かおう、自分で救いを手にするのだと思っていたはずです。しかしそんな肩肘はったパウロを神様の方が探してくださっていた。そしてパウロのプライドを粉々に砕いてくれたのです。私たちもそれぞれに与えられた肩書きがあると思います。パウロと同じように復活のキリストが私たちのところにもきてくださいます。そして私のプライドを壊すことで、私を本当に自由な人にしてくださるでしょう