コイノニアを形造る教会 ~その1~

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。(詩編133:1)
旧約聖書 詩編 133編1節
おはようございます。但馬みくに教会の吉田実です。皆様は「コイノニア」という言葉をお聞きになったことがありますでしょうか。コイノニアとはギリシャ語で「交わり」を表す言葉です。キリスト教会は本質的に愛の交わり(コイノニア)を形づくります。なぜでしょうか。いろんな言い方が出来ますが、聖書の神様御自身が本質的に愛の交わりの中に生きておられますので、そういう神様によって造られた人間は、特にキリストの体なる教会は、愛の交わりを形づくるのだと、申し上げたいと思います。そもそも聖書の神様は唯一の神様ですけれども、一人ぼっちの寂しい神様ではありません。父・子・聖霊なる神様が愛によって一つに結ばれている、三位一体の神様なのです。そしてそういう神様が御自身に似た者として最初に人間を造ってくださったときに「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われ、「男と女に創造され」(創世記1:27)ました。それは「人は必ず結婚しなければならない」ということではなくて「人は一人ぼっちで孤独に生きるべきではない」という意味です。ですから人間は本質的に、違いのある者たちが愛し合い助け合って、共に生きるように最初から造られているのです。けれども最初の人間は神に逆らって罪を犯し、人は皆罪人となってしまいました。そして本当は一緒にいたいのに、違いのある人たちが一緒にいると互いに傷つけ合うようになってしまいました。ですから、そういう人間が交わりを形づくる時の原則は「類は友を呼ぶ」ということになりやすいのです。共通点の多い、似たような人たちが集まって、違いのある人たちを排除する。狭い「村社会」のような、村八分やいじめを生みやすい集団になる傾向があるのだと思います。けれども、そんな人間の罪の問題を解決して、神の国を完成するために神の独り子イエス・キリストがこの世に来てくださいました。そして主イエスは私たちの罪の責任を全部背負って十字架の上で身代わりとなって死んでくださり、死の力に打ち勝ち蘇ってくださいました。このイエス・キリストを信じて全ての罪を赦していただいた者たちは、キリストの体なる教会を形づくり、違いのある人たちを排除しない、むしろ違いが豊かさとなるような、愛の交わり(コイノニア)を形づくるようになるのです。
とはいえ、全ての罪を赦されたとはいえ、人は実体として今もなお罪人ですので、そう簡単には行きません。新約聖書を観ますと、一見理想的にも見える最初の教会の中で、ギリシャ語を話すやもめたちが日々の分配で軽んじられているという苦情が出て、その問題の解決のために努力をしたことが記されています。さらに、福音がユダヤ人から異邦人にも宣べ伝えられ、ユダヤ人の会堂に異邦人がぞくぞくと集まって来たときに、ユダヤ人の一部の者たちがねたみと怒りで、異邦人に福音を語るパウロに反対したということも書かれています。いろんな違いのある人たちを受け入れるということは、決して簡単なことではないということです。簡単ではないのですけれども、それでも違いのある人たちを排除しない。共に生きる努力をあきらめない。それがキリスト教会のコイノニアの特徴だと思います。
ある教会がコンサートを開いたときに近所の独り暮らしの男性が来てくださいまして、そのまま礼拝にも出席するようになり、ついに信仰が与えられて洗礼を受けて、クリスチャンになりました。それは教会全体の大きな喜びでした。けれどもその男性は感情のコントロールが苦手で、子どもたちの集会にも参加して子どもたち以上に大喜びではしゃいだりしました。そこで担当者が「これは子ども集会ですので、少し遠慮してください」と注意をしますと「なんだと!俺を馬鹿にするのか!」と言って、彼は怒り出したのです。そういうことが何度も繰り返されました。大の男が怒ったりしますと、女性は怖いのです。ですので「あの人が参加する集会には出たくない」という声が聞こえてきました。それも仕方のないことです。その教会の牧師は悩みました。そして、男性の教会員と相談をしまして、その人と一緒に金曜日の夜に有志で集まって、お茶を飲みながら自由に語り合うカフェを開催して、いろんなことを語り合うようにしました。その中で、その方の「怒りをコントロールできない問題」の背景にある、家庭環境やご自身の特徴やこれまでの経験などを少しずつ話してくれるようになりました。そしてそういう交わりを通してすべて問題が解決したのかと申しますと、そんなに現実は甘くはなくて、その方は今でも時々怒りを爆発してしまうことがあります。でもその回数はうんと減って、今も一緒に礼拝を捧げておられます。教会とはそういうところです。是非ご近所のキリスト教会の日曜礼拝にご出席ください。そこには天国のような理想的な交わりはないかもしれません。でもそこに向かう途上にある、誰も排除しないという決意をもって、主の愛をもって共に歩もうと苦闘している、素敵な人たちと出会えるに違いありません。