聖書の言葉
神に従う人は七度倒れても起き上がる。
旧約聖書 箴言 24章16節
川瀬弓弦によるメッセージ
あるニュースのコメンテーターがこんなことを言っていました。「子どもって本当に感情豊かで、喜怒哀楽がはっきりしているよね。でも大人になると、それを押し殺して生きるようになる。大人はもっと子どもの素直さから学ばないといけないんじゃないかなと僕は思う」。今日エダさんに歌っていただくのは、「歩こうイエスの道を」という教会で子どもたちが歌う賛美です。きっと、いつも聞いておられる賛美歌とは違う、子どもらしさや素直さを感じていただけるのではないか、と思います。
♪「歩こうイエスの道を」
歩こう、イエスの道を、喜び微笑んで
救いの喜びを、世界に伝えよう
歩こう、イエスの道を、つまづき倒れても
ともしび吹き消さずに、空高く燃えよう
ある時は一人で、ある時は二人で、どんなに長い坂も超えられる
この子ども賛美は、イエス・キリストの素晴らしい救いの喜びを世界に伝えよう、と子どもたちに呼びかける歌です。でも、歌はこう続きます。「歩こう、イエスの道を、つまづき倒れても…」神さまのメッセージを届ける人が、その途中でつまづいたり、倒れたりしてしまったら本当はまずいのではないでしょうか。
もし皆さんが、教会は「聖なる人の集まりだ」と思われているとしたら、それはちょっと違います。牧師だって派手につまづくし、倒れてしまうことがあります。皆さんと同じ人間です。先ほどお読みした聖書にもこうありましたね。「神に従う人は七度倒れても起き上がる。」「七転び八起」ということわざがありますが、聖書が起源かもしれません。神に従う人でも「七度も倒れる」のです。七というのは、聖書ではこれ以上はない完全な数を表しますから、もう本当にダメだと思うところまで追い込まれてしまうことがあるということです。でも、そういう絶望からも這い上がって起き上がることができる。それはどうしてなのでしょうか。
「七転び八起」ということわざでは、起き上がろうとするのは自分自身です。成功する人とそうでない人の違いは、失敗を繰り返しても、またそこから立ち上がる力と忍耐を持っていたかどうかです。神を信じる人が絶望の淵から這い上がってくるのも、そういう力を自分の内に持っているからでしょうか。そうではありません。
小さいころのことを思い出してみてください。子どもが何かに躓いて転んでしまいました。側にいる親は、泣いて自分で立ち上がることができない子どもをじっと見ているだけでしょうか。すぐにかけよって来て、助けて起こしてくれたのではないでしょうか。「泣かないで」と慰め、「大丈夫」と励ましてくれます。すると何事もなかったように子どもはまた元気に遊び始めるのです。
いつも側にいて、助けて起こしてくださる神がおられる。ソロモンという王様はこういう言葉を残しています。「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。」(コヘレトの言葉)私が倒れた時に必ず助け起こしてくれる友、イエス・キリストはそういう友となってくださいます。それが福音です。だから私はこのお方に従うのです。