聖書の言葉
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。
新約聖書 ヨハネによる福音書 21章12,13節
宇野元によるメッセージ
太宰治の作品。いつひらいても新鮮に思います。時をこえて、心に働きかける力があると思います。感じやすい生きた心を感じます。
手元にあるものから、いかにも太宰らしい、印象的な書き出しの言葉を、いくつか拾ってみました。作品を思いだす方もいらっしゃるでしょう。
「小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。」
「4月16日。金曜日。すごい風だ。東京の春は、からっ風が強くて不愉快だ。」
「君、思い違いしちゃいけない。僕は、ちっとも、しょげてはいないのだ。君からあんな、なぐさめの手紙をもらって、僕はまごついて、それから何だか恥ずかしくて赤面しました。」
「拝啓。一つだけ教えて下さい。困っているのです。」
「たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。」
「恥の多い生涯を送って来ました。」
個人的な感想を加えさせていただきますが、わたしにとって、太宰の作品が心に響くのは、ひとつには、作品の舞台が、青春時代に過ごした場所と重なるからです。彼の作品を読んでいると、よく知っている町と、町のにおいを感じることがあります。
東京駅から西に延びる JR 中央線の、新宿から、さらに西の沿線。彼自身が住んでいた、そのあたりを背景にした彼の話は過去のことです。けれども、町のにおいと共に、たしかに実在したことであり、今も変わらず、実在することであると思います。
昔、あの場所で自分がたしかに思い、感じたことと重なるし、今、あの場所を歩いている人々、当時の自分と同じ年頃の人たちの今が表現されていると思います。これは太宰の言葉ではありませんが、昨年、お亡くなりになった、池内紀さんが、こんなふうに表現しておられます。
「あるときは地の底に沈みこむようにして町角に佇んでいた。またあるときは、こみあげてくるよろこびのあまり、躍るようにして通りを急いだ。」
時代が変わっても変わらない、世代をこえる体験が存在します。個人的にも、青春をすごした町をふたたび訪ねることは、時をこえることであり、もういちど自分のうちに若い心を感じることであるでしょう。
「オイ、甘ったるい話をするなよ。」そう太宰は言うかもしれません。「ふりかえれば、痛いことがたくさんあるだろう、お前さんも。」
「おっしゃるとおりです、太宰さん。」
美しいガリラヤ湖畔に、もういちどイエスが立ち、もういちど弟子たちと食事をされた。ヨハネ福音書から、その記録をお読みしました。
十字架につけられたイエス・キリストと、弟子たちの再会は、思えば、これと似たところがあります。
「あるときは佇み、あるときは躍るようにして歩いた」町で、もういちど新しくなる。思い出がたくさん詰まったガリラヤで、もういちど出発させていただく。朝の強い光の中で。
青い湖が キラキラと輝いているのが目に浮かぶようです。
そして光のかがやきのなかに、彼らの黒いシルエットが浮かぶようです。
イエスと弟子たち。遠くから見たら、一つのシルエットに見えたでしょうね。イエスと共にあります。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。」
弟子たちにとって、復活のイエスとの再会は、過去を振り返り、自らの破れを思い起こさせられる体験でした。痛いことをたくさん思いだすことでした。しかしそれと同時に、いいえ、それ以上に、心の痛みを包んでいただく体験でした。それは初めの心を、より深く、より豊かに取りもどす体験でした。
イエス・キリストを信じて生きることは、福音書がしるす弟子たちの歩みを歩むことです。聖書の言葉と共に、時をこえて、まさしく、彼らとおなじ体験をすることです。
「イエスは、さあ、来て、食事をしなさい、と言われた。」
「パンを取って、私たちに与えられた。」
私たちも、自分の力では取り返しのつかない多くのことを示されます。しかし、それにもかかわらず、弟子たちのように起き上がらせていただきます。かたわらを歩んでくださる方によって。そうして、ふたたび、みたび、新しい心をいただいて、前へ向かわせていただきます。