聖書の言葉
あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。・・・
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
旧約聖書 詩編 51編5節、19節
川瀬弓弦によるメッセージ
ダビデの罪
今日お読みしました聖書箇所は、詩編と呼ばれる旧約聖書の詩文の内の一つ、詩編51篇の中の言葉です。この詩編は初めから終わりまで、悔い改めをテーマとしています。罪を犯したことを神様の前に告白し、それを悔いる、そういう詩です。この詩編はイスラエル史上最も優れた王であったダビデの詩編であると言われています。なぜダビデは心から悔い改める必要があったのでしょうか。詩編の冒頭にその理由が記されています。それによるとダビデがバト・シェバという女性と性的な関係を持ってしまった時、預言者ナタンが彼の所に来て、ダビデの犯した罪を迫った、その時に歌われた詩が、この悔い改めの詩編であるということです。その時の事件をサムエル記下11章と12章が詳しく記していますので、お時間がある時に読んでくださればよいと思います。
事件の概要を簡単に述べておきます。ダビデがイスラエルの敵であるアンモンと呼ばれる人々との戦いに明け暮れている時のことでした。始めは戦いで陣頭指揮を取っていたダビデでしたが、年が改まると、ダビデは軍隊を戦場に送り、自分はエルサレムに残りました。そんなある夕暮れ時にダビデが宮殿の屋上を散歩していますと、ウリヤという男の妻で、バト・シェバという美しい女性が水浴びをしている姿を見かけます。その姿を見て、欲望を抑えきれなくなったのでしょう。すぐに宮殿に召し入れて、ダビデは彼女と性的な関係を持ってしまったのです。そればかりか、子どもまで出来てしまった。これに焦ったダビデは、このことが明るみにでないようにと、あの手この手で宿った子どもはウリヤの子だと思わせようとします。ウリヤを酒に酔わせ、家に帰らせようとするのですが、決して妻の所に帰ろうとはしない。私の同胞がまだ戦いの真っ直中にいるのに、私だけ家に帰るわけにはいかないと言うのです。私たちが嘘を隠すために、次から次へと嘘をつくのと同じように、ダビデは一つの罪を隠すために、次から次へと罪を重ねていきます。そして、とうとうダビデはウリヤを戦場の最前線に送り、そこで罠にかけ、ウリヤの命を奪うことに成功します。ダビデは一つの罪を隠すために殺人までも犯してしまうのです。
神の目は見ている
ウリヤを殺したことによって、自ら犯した過ちは、もはや明るみに出ることはないように思われました。そればかりか美しい女性バト・シェバを手に入れ、そして子どもまでもうけました。ダビデの目には、すべてが完璧でした。しかしどんなに人の目をごまかそうとも、神様は見ておられます。神様の前に罪を覆い隠すことは、決してできないのです。もう大丈夫と胸をなで下ろしているその矢先に、神様は預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、ダビデの罪を厳しく追及しました。神様はすべてを見ておらる。そう気づかされたダビデは「私は主に罪を犯した」そう告白して、自分の犯した罪を認めます。その時ダビデが歌ったのがこの悔い改めの詩編です。
悔い改めること、神と出会うこと
誰でも自分の悪が明るみに出ることを恐れます。罪に蓋をして、必至で罪を覆い隠そうとします。私たちは罪と向き合うことを恐れ、かえって罪から目をそらそうとします。罪に背を向けようとします。自分の罪を認めたくない、見たくないのです。しかしどうでしょうか。罪を罪で覆い隠そうとするなら、私たちは罪から離れるどころか、罪にどんどん縛られていきます。罪に背を向けることによっては、私たちは決して罪から逃れることはできないです。
悔い改めるとは、180度方向転換をすることです。向きを変えることです。罪に背を向けるのではなく、自分の罪と向き合うことです。「私の罪は常に私の前に置かれています。」そうダビデは表現しました。私の罪は私の目の前に常に置かれている。だから罪から目を背けることはできません。その罪の姿は、私の醜い姿です。そんな裸同然の自分の姿と向き合うのは、非常に辛いことです。
しかし自分の罪としっかりと向き合ったダビデは、次の発見をするのです。19節「打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」自分の罪の姿と向き合う、その同じ方向に、そんな彼をしっかりと受け止めてくださる神様がおられるのをダビデは見ました。悔い改めを通して、私たちは罪に汚れた醜い姿から、決して目を背けることのなく、私たちを愛し、そして赦してくださる神に出会うのです。悔い改めは、憐れみ深い神様との出会いの時なのです。
自らの罪によって人殺しまでしてしまった、この罪深い王ダビデとバト・シェバの間に生まれた子どもソロモンの家系から、救い主イエス・キリストが生まれました。しっかりと自らの罪と向き合い、悔い改めたダビデは、救いから漏れるどころか、救いの歴史の大切な一端を担う人として神に用いられたのです。私たちもまた、救い主イエス・キリストの十字架の前に悔い改め、そして救いの歴史の中へと招かれているのです。